■中世の修復事業

 14世紀中葉より15世紀にかけて、アンコールとアユタヤの間では度重なる戦闘が起こっていた。王朝の編年記によれば、これらの戦闘の結果1431年にアンコールは放棄されたようで、首都はシャムの脅威から遠ざかるためにトンレサップ湖の南側へと移転された。


 1550年頃、時の王アン・チャン(Ang Chan)は、象狩りの途中で密林の奥にアンコールを発見したという。アンコール・ワット外回廊の東面中央に刻まれた碑文によれば、彼はアンコール・ワットの修理を命じたようである。外回廊東面北側から北面に至る「神々の戦争」は、外回廊の中でも他とは作風が異なることでよく知られているが、彫法や図像からは、ヒンドゥー教の伝統が残されていた時期、13世紀から14世紀に属するとも考えられている。しかし、この碑文の記述に従えば、アン・チャン王の修復の命令によるこの時代の仕事であった可能性もまた否定できない。アン・チャン王の孫であるサータ(Satha)王はアンコール・ワットの周壁内部に宮殿を造り、アンコール・ワットの修復を継続したという。この時代に刻まれたアンコール・ワットの碑文は「寺院はかつての真の状態へと修復された」と読むことができるという。内回廊に認められる丸柱の再利用を伴う修復工事などはこの時の仕事であると考えられている。また1587年、高官アパプイ・ラージャが仏陀像を建立し、「四面の人面堂」を修復したという碑刻文も発見されている。 これはジャヤヴァルマン7世により建造された尊顔塔の修復であることを示しているのかもしれないし、アンコール・ワット中央塔の木製扉が立仏像の彫刻された石製の盲扉へと改変されたことを記録しているのかもしれない。1599年、同人物が「塔堂を造り仏像を安置した」が、これは木造の建造物であったようである。1693年にも「金色のこの木造尖塔がこの機会に修復された」とあり、当時、寺院に金箔が貼られたり、塔頂部に飾りが取り付けられたことが窺われる。これは1579年のサータ王の碑文に認められる「9つの尖塔を造らせ、塔を金で覆わせた」記録や、1693年の碑文「仏回法回僧の三宝に敬意を表し建立された塔の3つの頂を新たに修復させた」という記録からも広く類推される。

 アンコール遺跡全体を見回してみても、16世紀の諸王は様々な遺跡に対して手を加えたようである。例えば、バプーオンの上部テラスに増拡された涅槃仏、プリヤ・ピトゥーやテップ・プラナム寺院の整備、アンコール・ワットの内回廊と主祠堂とを連絡する列柱の改変、象のテラスの北端の彫刻、アンコール・トム内の各仏教テラスの建造、プノン・バケンの未完の座仏像の安置、そしてプノン・クーレンのプレア・トムの涅槃仏の彫刻などこの時代に比定される仕事は枚挙にいとまがない。アンコール・ワットにて発見された多数の木像がこの時代を示していること、また前十字回廊の列柱に認められる17例の日本人の墨書の多くが17世紀初頭のものであることなど、この時代アンコールには国内外から多数の参拝者が訪れていたようである。

 このような史的価値を有する活動の痕跡を保存するのか、それとも排除してもよいのか、これは修復方針を決定する上で極めて困難な問題を呈することになる。例えば、フランス極東学院が進めているバプーオンの修復では、建造当初の構造体の上に涅槃仏が増築されている。この涅槃仏を取り除いて当初の姿を甦らせるべきか、それとも涅槃仏にも史的価値を認めるべきか。また、バイヨン期の多くの遺構に認められる段階的な増拡を示す伽藍において、復原すべき段階をどのようにして設定すべきか。

 修復活動においては、かつてあった状態に戻すことができる処置、つまり可逆性のある方法を選択することが最重要の原則の一つとなっている。バイヨン期の寺院のように建物が改変されている場合、様々な過程を包有している最終形態が復原されるべき姿なのであろうか。もし、崩壊してゆく過程もまた歴史的経過を示す価値を有するものと考えるならば、それらをかつてあった状態へと復帰させる全ての行為は非可逆的な活動になってしまうのであろうか。これらの複雑な課題を前に、修復行為とはオリジナリティーと史的な重層性との間で倫理的な打開策を見い出すための思考を重ねることなのかもしれない。