■フランス極東学院によるアンコール遺跡群での保存修復活動

1. フランス極東学院とアンコール遺跡

 フランス極東学院(EFFO:École française d'Extrême-Orient)の発足は1898年にまで遡る。時のインドシナ総督ポール・ドゥメール(Paul Doumer)は、占領政策の一環として、 インドシナ半島の科学的調査機関をサイゴンに設立した。この機関は二つの部門によって構成され、その第一部は考古学と史跡保存、第二部は自然科学を研究する機関として設けられた。 第一部長にはルイ・フィノ(Louis Finot, 1864-1935)が就任し、1899年から1900年に渡って全半島及びジャワの史跡を踏査した。 その調査に基づきサイゴンに、図書館と博物館を備えるインドシナ考古学調査団(Mission archéologique de l'Indochine)を設立した。 この調査団はインドシナのみならず、広く中国、インド、マレーシア等の考古について研究することを目的とした。 また、その対象は建造物に限らず、歴史、言語についても等しく研究されることになった。それらの特徴を継承して、1901年には「フランス極東学院」と改称されハノイに移された。 東洋学全般を扱う研究機関として、今もなお活動が続けられている。

 フランス極東学院の設立と共に、遺跡の修復と保存が活動に加えられたものの、その対象はベトナムの安南の遺跡に限られたものであった。 アンコール遺跡の考古学的調査は、単発的にのみ行なわれた。その背景には、当時アンコール地方がシャムに属していたことが挙げられる。 しかし、1907年3月23日にフランスとシャムの間で交わされた協定によりアンコール遺跡を含む三つの州がシャムからカンボジアに返還され、 1864年以来カンボジアを保護領としていたフランスはアンコールの保存修復に携わるようになり、その任務は全面的にフランス極東学院に任されることになった。 翌年には「アンコール遺跡保存局(Service de conservation des monuments du group d'Angkor)」が創設され、本格的にフランス極東学院の手によって、 アンコール遺跡の調査及び修復活動が行なわれることになった。内戦に至るまでの期間におけるフランス極東学院の活動は、時にあまりに独占的に行なわれているとの批判もあったが、 その功績は多大であり、東南アジアにおける遺跡の保存修復活動の基礎を成したと言えるだろう。

 

2. フランス極東学院による整備・保存・修復の史的展開の概要―歴代保存官を通じて―
(アンコール遺跡保存局の発足から内戦による中断まで)

2-1. アンコール遺跡保存局の誕生とその初歩的段階
 遺跡の恒常的な調査を目的として、フランス極東学院はアンコール遺跡保存局を1908年に設立した。その後内戦による中断に至るまで、その活動は大きく変化した。設立当時は遺跡自体、鬱蒼とした植物に埋もれ、その除去に多大な労力が費やされることになった。その任務に最初に就いたのがジャン・コマイユ(Jean Commaille, 1868-1916/在任期間1908-1916)であった。彼はアンコール・ワットの参道に寄り添うような藁葺き小屋に寝起きし、草木、土砂などの除去に精を出し、アンコール遺跡における最初の保存官として、寺院全体を管理する任務を全うした。しかし除草作業は決して終わりの見えない永続的な仕事であった。これらの作業は主にアンコール・ワット(1908-1910)、バイヨン(1911-1914)で行なわれた。植物の伐採は選択的に行なわれ、必要に応じて再植林もされた。この他にも、彼はアンコール・トムの北と南の道(1910-1912)、「癩王のテラス、象のテラス(1911)を手がけ、最後にはバプーオンの作業に入り、涅槃像周辺の植物を除去し(1908)、浅浮き彫りの撮影を行い(1912)、測量も行なった(1915)。しかし、パイオニアとして困難な状況であったことを象徴するかのように、1916年4月29日に彼は強盗に襲われ、殺害された。

 コマイユの死後、アンリ・マルシャル(Henri Marchal, 1876-1970/在任期間1919-1933, 1947-1952)は前任者の仕事を引き継ぎ、草木や土砂の除去を続けた。1919年に彼は正式に保存官に就き、遺跡の崩落危険箇所へ局部的な補強を始めた。設立から十年以上がたってようやく修復保存活動が始められたことからも、それまでの植物や土に埋もれた遺跡の状態を推し測ることができるだろう。彼はプノン・バケン、バプーオン、バイヨン、勝利の門などでモルタルにより亀裂を充填するなどの初歩的な修復作業も進めた。こういった作業によって安全に遺跡に訪れることが可能になったのである。1925年にはアンコール地区の遺跡全体を史跡公園として整備するという、いわゆる「アンコール遺跡公園」が正式に開設され、大小の観光コースが設定された。これより中心から離れているプリア・カーンやバンテアイ・クデイでも簡易的な修復活動が行なわれることになった。

 

2-2 アナスティローシスの導入
 遺跡を覆う植物はその成長により遺跡を破棄してしまう脅威を常に孕んでいた。しかし同時に、今なおタ・プロムに見られるように遺跡と植物の共存がもたらす神秘的な様子は人々を魅了するものである。また時に樹木そのものが構造体となり、崩壊に至る建物を支持している場合には、それらを除去することさえできなかった。マルシャルが導入したアナスティローシスはこれらの困難を解決し、アンコールにおける本格的な修復を促したメルクマールとなった。

 遺跡にどこまで手を加えることが許されるのかということは、常に修復家の抱えている命題である。アナスティローシスを最も広義に定義するならば「現場で発見された部材を用いて建造物を再建する」ということになる。東南アジアではオランダ人F.D.K.ボスがインドネシアの修復工事に導入したのが先駆けとなり、正確な測量と写真撮影を元に、残された石材を組み合わせ、再建をするという手法を実践していた。ジャワの現場でこの修復方法を学んだマルシャルはアンコールの建造物がより複雑であることを踏まえ、比較的小規模なバンテアイ・スレイでパイロット的にこの手法での修復を試みた(1931-1933)。アンコールの砂岩は脆くこの修理方法では部材の破壊がかえって進んでしまうのではないかという問題も持ち上がったが、それらの憂いを払拭するように、バンテアイ・スレイでの修復は成功を収めた。

 これを受けて、1932年にフランス極東学院の研究員になったジョルジュ・トゥルーヴェ(George Trouv, 1902-1935/在任期間1935)は、マルシャルと共にバイヨンの中央祠堂と外回廊においてアナスティローシスによる修復工事を行なった。その後モーリス・グレーズ(Maurice Glaize, 1886-1964/在任期間1936-1947)は広い範囲にこの修復方法を拡大した。彼は東メボン(1937-1939)を手始めに、プノン・クロム(1938)、プノン・ボック(1939)の修復工事を行ない、更にバコン(1936-1944)、ニャック・ポアン(1938-1939)、バイヨン(1939-1946)、アンコール・トム(1939-1946)などにもこの方式を導入した。第二次世界大戦によって作業は中断されたものの、僅か一年で作業はすぐさま再開された。

 

2-3 内戦による修復事業の中断までのアナスティローシスの近代化

 1931年のアテネ憲章を発端としてアナスティローシスは世界中に広められた。しかし、その定義は場所や時代によって様々であり、今なお確実な定義がなされてはいない。アンコールでの修復活動においても同様に、その手法は常に更新され続けた。第二次世界大戦を跨ぎ、1954年のカンボジアの独立を迎える頃になると以前の修復の問題点が明るみに出てくることになる。すなわちセメントによる構造補強は徐々に劣化し、至るところで崩壊が生じ、修復手法の抜本的な改革が求められることとなったのである。

 1959年にベルナール=フィリップ・グロリエ(Bernard-Philippe Groslier, 1926-1986/在任期間1959-1973)が局長になると、アンコール遺跡保存局は体制を一新し、より科学的に調査、修復が行なわれるようになった。植物学者、鉱物学者、気象学者などが参加し、遺跡崩壊の原因を科学的に究明し、効果的な修復方法の模索に努めた。これらの努力の結果、遺跡の存続を最優先にすることを目的に、建物の基礎内部にコンクリートを利用するという大胆な修復がなされることになった。アンコール・ワット、アンコール・トム、バプーオンをはじめ多くの遺跡でこの方法は実践された。局長グロリエの下で、現場は時に1,000人を超す専門家及び技術者によって修復が進められ、アジア最大の修復現場となった。ところが、1970年3月のクーデターを皮切りに始まった内戦の影響がアンコールにまで及ぶと、その作業も中断を余儀なくされた。戦火の中もグロリエは現場を離れずに、この新たなアナスティローシスを実践し続けたが、結局1972年にはその作業は中断されるに至った。後に、コンクリートの利用の是非などオリジナルの保存の問題を巡ってさまざまな議論がなされたことも事実だが、グロリエによる一連の仕事は、科学的な技術の導入と多角的な視点から修復方法を革新したという点に置いて、アンコールの修復史に多大なる功績を残したと言えるだろう。