>>>これまでの経過

 バイヨン憲章は、「ベニス憲章」(1964年)および「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」(1994年)にて述べられた文化的遺産に対する保存の精神を受け継ぎ、バイヨン寺院およびそれを中心とするアンコール地域の遺跡を対象とした保存活動の実践に供する指針を提示するものである。
 バイヨン寺院の保存活動は、遺跡が独自にもつ文化的価値のみならず、保護活動が緊急に必要とされる危機的な状況下にあるものとして進められる。その保存活動はアンコール地域とクメール民族に根ざした独自の価値のみならず、多様性を内包する世界の総体的な価値への貢献に基づくものでもある。
 バイヨン寺院の保存修復活動を通じ、我々はアジアの世界遺産保存の今日的な意義を見いだすであろう。

 本憲章は、日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)によるこれまでの保存活動の経験と成果に基づくとともに、JSAが主催し、APSARA(Authority for the Protection and Management of Angkor and the Region of Siem Reap)の領導と UNESCO事務局による国際会議であるバイヨンシンポジウムの第1回から第9回(1996年8月〜2004年12月)にわたる議論を通じて、参加した各国専門家より提言された項目を受け起草された。(2005年6月)

第1条
 バイヨン寺院は古都アンコール・トムの中心に位置し、後に宗派および規模形態の増改変を経るものの、大乗系仏教の宗旨のもとにジャヤバルマンVII世により建立された。伽藍は複雑な平面形態をなし、中央塔をはじめとした伽藍中枢の遺構群を載せる上部テラス、その周囲をかこむ十字回廊および内回廊によって構成される中間テラス、そして南北経蔵等の外側に外回廊がめぐる下部テラスからなる。一方、52基の塔に計画された181面の内、現存173面の巨大な尊顔彫刻と当時の庶民生活の生き生きとした描写、そしてシヴァとビシュヌ神、ジャヤバルマンVII世の物語が壁面の浮彫り装飾等によって壮大な一大絵巻として表現されている。これは、クメールのみならず世界の建築史上稀有なバイヨンの意匠構成上の特徴であって、それらが一体となって、バイヨン寺院建立の意図、すなわち、神々に守護された神聖寺院の霊力と神聖都市アンコール・トムの栄光を謳い上げている。この卓越した創造力の発露にこそ、人類の精神史上の一頁を飾るバイヨンの特質がある。
 しかし、現在遺跡の劣化崩壊は著しく、観光客が集中することもあって、最も危機に直面した遺跡の一つであるにも関わらず、その修復保存が技術的に極めて困難なものとなっている。バイヨンはアンコール・ワットと並ぶアンコール遺跡の双璧であるだけでなく、どちらか一方が欠けても、クメールの伝統精神を維持することが不可能となるような、クメール建築を代表する寺院である。この遺構の保存はクメール遺跡全体の保存活動にとって指標となる存在であり、アジア全域の文化財保全活動にとっても、きわめて重要な経験となる。カンボジア国民の心中に今なお生きる信仰的意義も含めて、バイヨンが遺跡として現存し、それが後世へと継承されることの人類史的意義を推し量ることにこそ、努力が払われるべきである。

第2条
 広範囲な分野における学術的科学的調査研究を基礎として、継続的な維持管理活動によってバイヨン寺院の現況把握が正確になされ、劣化している箇所についてはその原因が示される必要がある。またバイヨンだけでなく関連遺跡の価値に関係するすべての学際的な実証研究も不可欠である。

第3条
 学術的調査研究を通じてバイヨン寺院内での最優先かつ最重要保存修復活動箇所を特定する。バイヨン寺院の場合、中央塔の安定化と恒久的保存、そして浅浮彫り彫刻の保存修復が緊急課題である。寺院全域を視野に入れた構造的劣化のコントロールシステムの構築が必要である。

第4条
 修復技術は標準化を図ると同時に倫理性を配慮した技術的レベルでのコンセンサスを確立する必要がある。例えば全ての古材は修復の上、再利用を試みるなど、できるだけ保存に努めるべきである。修復方法の選定にあたっては、その妥当性を十分に検証し、修復活動は熟練した技術をもつ施工組織によって遂行されなければならない。
 完全に失われてしまった遺跡各部の復原は、考証の結果、確実な根拠が示される場合に限定し、構築物と古材の保護および遺跡の歴史的価値の向上と伝統的理念の保存を目的とする範囲に留めるべきである。その場合、十分に詳細な現状の記録と修復工事の見通しの検証を行い、伝統的構築技術の踏襲を目指すべきである。
 現状を維持するため、あらたに加えられる補強の方法と材料は、上記の理念を踏まえ、注意深く検討されるべきである。

第5条
 どのような修復工事であれ、修復後、モニタリングシステムを確立し、継続的観測を行うよう努めるべきである。この作業は当該遺構の問題点の発見に寄与するばかりか、修復方法の反省的検討を行う上で有用な指針になりうる。

第6条
 バイヨン寺院の水利構造は、水の循環系を重要視するクメールの伝統的理念の一環であり、環境調和思想の強固な主張として受け止めるべきである。バイヨン寺院だけでなくアンコール遺跡が体現している環境調和思想は後世への継承だけでなく積極的に世界へ向けて発信されるべきであり、この特質の保存を可能とする修復方法を図るべきである。そのためにはバイヨン内外において、水、森、気象を始めとする、自然環境の継続的なモニタリングとその観測に基づく管理、整備が求められる。

第7条
 クメール文化におけるバイヨン寺院とその他のアンコール遺跡の存在意義の重要性を考慮し、アンコール地域、およびカンボジア国内でいまなお生きる宗教的な民俗慣習も保全されるべき重要な対象である。またバイヨン寺院のツーリズムへの公開に付随する遺跡各所への物理的な負荷や周辺環境への影響を十分に配慮し、調整する必要がある。こうした社会的文化的環境の継続的なモニタリングが望まれる。

第8条
 多くの遺跡を含むアンコール地域全体が調和した景観を保ち続けるためには、この地域内で行われるあらゆる構築、破壊行為を把握し統制するシステムが必要である。また、個々の遺跡修復事業は、全域の景観保全を十分に留意して、相互に修復方針に関してコンセンサスを図る必要がある。同時に、各所に現われる工事現場の景観についても、注意深い配慮が求められる。

第9条
 バイヨン寺院は建築様式、美術様式、その構築技術のみならず、歴史的、文化的、社会的価値においてアンコール・トムおよびアンコール遺跡群の連続的関係に帰属する。この緊密な関係に注目し総合的に保全事業を進めていくことによって、地域環境の全体的な保全の可能性を高める道が開かれる。これは、いまなお各方面で機能し続けている水利網に代表される歴史的な都市基盤を保護することであり、風土に根ざした伝統的な生活習慣を守ることに繋がる。そしてこのことが結果的に文化遺産の保護のための背景となるであろう。

第10条
 アンコール地域の修復事業に関わるか、あるいは今後関わりを持つ各国は、カンボジア人自らが、バイヨン寺院及びアンコール遺跡の保存修復活動を担っていくためにできる国際協力を考えることが原則である。また保存活動に従事するカンボジア人専門家の養成を、各国は研修制度をもうけるなどして積極的に支援するべきである。アンコール遺跡の国際的な価値を理解し、意欲を持続しながら、現場の修復技能や修復計画技術を持つ人材を養成し、彼らの社会的地位の確立を目指すべきである。また、アンコール地域での保存修復活動は、 APSARAとの協調体制のもとで進められるべきであり、修復活動を行う団体は情報や指針の交換、人材の交流に努め、理念の共有化、技術の標準化を図るべきである。国際交流による開かれた人材養成がアンコールの特質である。

第11条
 修復活動における具体的な調査、研究、基本方針や技法の決定のための公開討議、修復技術に関連して、できるだけ有効な参考例となり得る実例の提示、すべてのプロセスの記録と公開、これらの契機を通じて保存修復手法のさらなる統一と発展が目指されるべきである。これは、保存修復活動の一環として強く認識されなければならない。また、これらの活動を支えるためにもさらなるドキュメンテーションセンターの充実が必要である。

第12条
 修復された遺跡のみならず、その過程で蓄積された保存修復の経験と技術もまた、人類に共通する文化的価値として尊重されるべきである。アンコール遺跡での保存修復活動を十分に経験したカンボジア人専門家は、将来の活動において重要な責務を演じ、クメールの伝統の伝達と普及を積極的に進めることが期待される。これらの人材は、他のアジア地域の文化財修復事業にとって貴重な存在となるだけでなく、アジアからの人々を受け入れる存在にもなるであろう。すなわち、研究と技術者養成および実際の修復事業における人材面において、さらに場所としてもアンコールは文化遺産の保存修復の分野に関する、アジアの一大センターとなるであろう。

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