バイヨン-アンコール・トム、アンコール遺跡全体の連関性について
(歴史的都市計画調査)
クメール王朝が最も繁栄した時代の都城アンコール・トムの構成原理を解 明するために、都城アンコール・トムの重要な都市施設である王宮前 広場の構成原理、都城アンコール・トムの計画手順、アンコール地域 の造営手順を測量調査による正確な位置情報をもとに分析していま す。具体的には、アンコール地域の遺構の分布をより正確に把握する ために,GPS(Global Positioning System)を用いています。精度の高い位置データを得、
・ 遺構の中心点
・ 遺構軸
・ 遺構軸の真北とのずれ
・ 目標物(山水、遺構、都市施設など)との方位性
・ 距離間(前時代の遺構、建物、軸線間など)
などの情報をもとに、考古学調査結果とも整合性をはかり、都市レベルでの視点から分析を続けています。
バイヨン寺院の現況に関する専門調査
1. バイヨン寺院における建築のインベントリー(建築学・考古学調査)
バイヨン寺院の現状を記録するとともに、その初期の姿を探り、建造の過程を明らかにする目的のもと、建築に残された多数の痕跡の精査を含めた寺院全体のインベントリーの作成と以下の作業を継続してきました。
(1)散乱石材の分類と同定作業
北経蔵の修復の際には、周辺に散乱していた膨大な数の石材について、装飾などの特徴をよく観察した上で分類し、残存部材に直接接合させることで当初材の判定と原位置の同定を行っています。
(2)発掘調査とロングトレンチの実施
バイヨン伽藍内回廊から外回廊を経て周回道路にいたる全長80mの長大なトレンチ発掘調査は、バイヨン研究史上最大規模であり、外回廊床下の暗渠施設や内回廊床下に密かに穿たれていた横穴など新発見の興味深い遺構とともに、伽藍の増改築過程、内外両回廊の構築工法、掘り込み地業の構造や範囲などを初めて考古学的に検証できたことなど、内外の研究者から大きな注目を集めました。
(3)排水システムの調査
雨水を排水するためのシステムが機能不全に陥ることは、塔の傾斜や回廊の基壇変位の一要因になると考えられます。これらの問題に適切に対処するため、排水システムの現状、その保存とメンテナンスを重要な課題として位置付けています。
2. 尊顔と浮彫り彫刻の意味すること(美術史調査)
チャンパの侵攻などの受難の時期を乗り越え、12世紀後半にジャヤヴァルマンVII世によって建立がはじめられたバイヨンは、国中の宗教的勢力に配慮し、国内のあらゆる神々の力を得ることを期待した国家寺院と考えられます。このような視座にたち、あらゆる彫刻モティーフからバイヨン寺院の性格を考察していこうと取り組んできました。その過程において、
(1)バイヨンの塔を飾る尊顔の性格および制作背景に関する調査
(2)バイヨンのペディメントや外壁などの諸彫刻に関する調査
(3)プノンペン国立博物館などに所蔵されるバイヨン期 の彫刻に関する調査を行いました。
3. バイヨンの高塔群の挙動観測(建築構造調査)
バイヨン塔の傾斜について、塔頂部と底部の中心点との差を測定し、その傾斜を算出することにより全体的な経年傾斜の傾向を調べています。これまでに38塔でこのような計測を行いました。また中央塔を囲む8つの副塔の内の6つについて、隣接する積み石の縦目地の間に微少変位計を設置して,目地の開きの経時変化を観測しています。その他にも、降雨量、風速、風向、温度、地下水位など、できるだけ継続してバイヨン全域の挙動観 測を実施してきました。
4. バイヨンとアンコール地域での地盤・地質調査と環境変化の観測
(地盤・地質・環境調査)
バイヨンの北経蔵の内部盛土材の細砂~粘土質砂は良質ではあるものの、締堅め難いという問題がありました。往古どのような手法を用いたのか、実験や考古調査結果を分析して再現検討しました。また、アンコール地域で初めての80~90m深度にある岩盤までのボーリング調査を1994年に行い,地盤地質構造の把握に努めました。その後,このボーリング孔を利用して地下水位の変動を計測しています。また,温度・湿度・風速,風向,雨量といった環境変化の観測も進めています。広域的視点からは地盤水環境について、現在、水質は悪化しつつあり、シェムリアップ川には、乾季には最低水量も確保されておらず、水郷都市というイメージから次第に遠ざかりつつあります。
5. バイヨン様式建造物の建造時期判定のための 砂岩帯磁率の寄与(岩石学調査)
バイヨン様式を持つ遺跡に対して砂岩の帯磁率からその建造過程を明らかにするとともに遺跡間における建造時期の対比を行っています。特に、バイヨン形式の代表的な遺跡であるタ・プローム、プレア・カーン、バンテアイ・クデイおよびバイヨンにおいて詳細な帯磁率測定を行いました。その結果、バイヨン期では砂岩の帯磁率が時代とともに一定の変化を示すことが明らかとなり、それに基づき、他のバイヨン様式を もつ遺跡を含めてその建築順序を明らかにすることができました。
6. 生物がバイヨンに及ぼす影響(保存科学調査)
アンコール遺跡には、樹木、地衣類、藻類、微生物、シロアリ、コウモリ等に起因する生物被害が認められています。バイヨンは、地衣類に覆われていると言っても過言ではありません。そして、アンコール遺跡の石材には、黒変現象やスケーリング様劣化が存在しています。また、バイヨンの中央祠堂には多数のコウモリが生息しており、その周囲に配置された祠室にも生息し排泄物が散乱しています。さらに、バイヨン北経蔵の基壇にシロアリの侵入が認められており、不同沈下の原因の一つともなります。地衣類と藻類に関して、防地衣剤や防藻剤の効力の比較検討や成育制御効果および除去効果を数年間にわ たり観察・記録しています。
7. 地域住民とバイヨン、アンコール遺跡 (文化人類学・都市計画調査)
バイヨンでの保存修復だけでなく、地域住民にとって重要である、精神的、かつ社会的意義を探るために、カンボジアの地元の人々にとってアンコール遺跡はどのような意義を持っているのかを、周辺農村を対象に調査しました。これまで、遺跡と地域住民との関係について、詳細な実態は把握されて来ませんでした。住民の各住戸生活実態や地域に対する考え方をヒアリング調査等しました。また、歴史地理的視点に対して重要な情報を提供する地形と住居の関係について、一定の概略を明らかにすることができました。この知見は、今後遺跡の保存と活用のための住民参加の手法に対する大局的な方向性を確立するための資料としていきます。
バイヨン寺院の劣化・崩壊メカニズムについて
1. バイヨンの砂岩と浮き彫り彫刻の劣化
アンコール遺跡群に認められる砂岩石材の劣化プロセスの多くは共通しており、その原因には温度変化、水分、石材内に溶け込んだ塩類の析出などの物理化学的作用と、植物、地衣類、真菌類、細菌などの成育によってもたらされる生物学的作用などが挙げられます。劣化への対処策には、付着物の除去、石材の強化、撥水性の付加などが一般的ですが、特に年間を通じて高温多湿な当地においては、材料、工法ともに既存の技術では十分な対応ができない状態にあります。特にバイヨン寺院においては二重の回廊に描かれた長大 な浮き彫りの劣化が懸念されています。
2. バイヨンの中央塔の構造システム と塔状建造物の傾斜の原因
バイヨン寺院の伽藍には50以上の塔が林立し、それらが一体となって小山のような輪郭をなしています。そのなかでも寺院中央に高く聳える中央塔は、大変ユニークで重要なものといえます。中央塔のような切石積みの塔状構造物の安定性を、現況の観察、目地開きの計測、傾斜計による挙動観測などから考えると、次のような2つの基本的な崩壊の形態が考えられます。まず、塔の重心が移動することによって、塔の傾斜・転倒が発生するもの。このような傾向は、ピサの斜塔にも見ることができます。そして、石積み構造の切石が部分的に風化、あるいは変位することによって、次第に外側から剥離、落下が継続して発生するというものです。この種の崩壊は、やがては塔構造の全面的な破壊を引き起こす原因になることが 予測され、早急な対処が必要とされる重要な課題のひとつです。
3. バイヨン伽藍全体の崩壊状況
現状では,南経蔵を筆頭として、中央塔など崩壊の危険性が高い建造物も少なくありません。特に外回廊はゴープラの一部を除き、ほぼ全体にわたり屋蓋が崩れ落ちています。また壁面彫刻装飾が雨ざらしのまま放置され、彫刻表面の剥離や風化が年々進んでいるという状況です。崩壊の危険がある箇所については、仮設的なサポートを設置するなどの応急措置も講じられています。また遺跡から倒壊して周辺に散乱していた部材については、北経蔵周辺のものはJSAによって整理されましたが、その他は、伽藍内の各所に集積されています。どのエリアの散乱部材をどこに整理したのかという記録も現在まで発見されておらず、今後の修復作業にとって大きな困難の ひとつです。
4. バイヨン北経蔵修復後のモニタリング
修復を施された建造物が、その後どの程度長らえられるかは、修復工事終了後の維持管理作業によって大きく左右されます。修復前におけるバイヨン北経蔵の崩壊要因のひとつが、基壇内部の砂の移動、流出と、それに伴う基壇の不等沈下にあったことは明らかです。修復後、ふたたび崩壊の危機に至る場合も、その兆候として柱や壁体に沈下現象が認められる可能性が高いといえます。したがって、独立柱、壁付柱、そして壁体にマーキングを施して、修復後の沈下量の定期的な計測を行っています。また、その他の部位の挙動については、原則として年2回の定期検診を実施し、部材間の目地開き、修理箇所の亀裂、部材の破損など、新たな劣化が発生していないかどうかの確認を行い、必要な処置を施して います。